協会報(~239号)

少しだけ、あの世

2012年3月15日 10時47分 [管理者]
少しだけ、あの世

関東学院大学図書館   高梨 章
 

 私の好きなものの一つ。それはだれもいない図書館。あるいは。ぽつんとした感じの時の図書館がかい間見せるあの、光り。
 「日の暮れ方になるとあたりはぼんやりと翳りだし、黄ばんだ光を投げかける卓上ランプがあちこちにぽっと灯りだす。夕食前に帰宅しようとそそくさと荷物をまとめて去ってゆく人々から取り残されてノートをとりつづけていると、なんだか荒寥としただだっ広い野原の真只中でたった一人うずくまっているような気持ちになって」くると記しているのは松浦寿輝さん。
 私もまた、他の図書館を一利用者としてよく使いますが、図書館がふいにかい間見せる、種々の光り、音(幻の)、空気。例えば、聞こえるか聞こえないかの、水の音の幻、枯葉のころがる小さな小さな音の幻、にじんだ光りの中の閲覧室。そんな時、目は、図書館の天井へと放心させて、おもわず小さな吐息、幸福の吐息をついてしまうのです。あるいは、「わたしの目の前にある本は、不要不急の書物だ。話題の著者でもなければ注目の本でもない。もしかしたら、日本人の中では、わたししか読まないかもしれない書物だ。わたしは午後のけだるい風に身をまかせながら、書物に目を走らせる。カーテンがゆらぎ、一陣の微風が頁の上を走る。わたしのほかにはだれもいない。〔中略〕まったく、何という至福だったろう。わたしは自分が目先の役にはまったく立たないことをしているというぜいたくな喜びで満たされていた。自分が研究者になったのはこのためだったと思えるほどの喜び」(上野千鶴子)。
 ここでのキーポイントは、「わたしのほかにはだれもいない」であり、風であり、窓、カーテンであり、「目先の役にはまったく立たない」ということだと言ってよいでしょう。
 図書館を愛する人には、誰にでもあるこうした孤立無援の感覚と、相反する幸福感覚とをフィットさせることができる、という奇特な人種が多いようです。
 しかし、上野氏におけるもう一つの重要なポイントは、それが閉架書庫のなかの出来事だったという点でしょう。
 閉架書庫。その位置付けについて、藤森照信氏はこう指摘しています。「図書館の書庫へ行くと、僕は死を感じるんです。あの世への通路といったらいいのかな」。
 そこでは時間が止まっている。しかし、崩れた感じはしない、どこかさわやかな止まり方、「あの世とこの世の真ん中ぐらいの感じ」と藤森氏は記し、「書庫に入ると窓側に机があって、そこで本を読んでいると、学者をやっててよかったなあと思う。こういう贅沢は娑婆の人間には味わえないぞって」と、上野さんと同じ感懐を記しています。
 私は、閉架書庫を「あの世とこの世の真ん中ぐらいの感じ」と位置付けた彼の指摘にまったく賛意を示すものです。図書館員でも閉架書庫を怖がる人は多いですものね。
 この世からちょっと離れた場所、書庫。この世からほんの少し、あの世。世界の音が、一瞬のうちに夢のような音になってしまう場所、それが書庫なのです。
 書庫の闇の中ではひそひそと、書物がささやいています。「古い図書館はみんなそうです」。長く聞いてはいけません。「病気になります。死ぬ人もいます」と記しているのは、元国立国会図書館員だった阿刀田高さん。
 書物は書庫に入ったら一度死ぬのです。そしてそのまま、いつまでも、開かれることなく眠りつづける本の何と多いことでしょう。書庫の中は、実は数かぎりない死者、敗退者にみちあふれているのです。
 そんな書庫の中で、書物から書物へと漂流しつづけている研究者、利用者たち。彼らは一体、どれだけの数の資料を、書庫の中からよみがえらせることができるのでしょう。
 書庫とは、胚胎と敗退の場所なのです。図書館がふいにかい間見せるあの光りの景は、死との親近、少しだけ、あの世の光りの景だったのです。そんな光景を、30年も見つづけてきた私自身もきっと、少しだけあの世、なのでしょうね、タブン。
                (平成15年度 永年勤続優良職員表彰受賞者 30年以上)
2012-03-15 [管理者]
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