協会報(~239号)

藤沢の郷土研究と『わが住む里』

2012年3月19日 14時35分 [管理者]
藤沢の郷土研究と『わが住む里』
  
藤沢市総合市民図書館 内藤彰


 藤沢市の図書館は1948年(昭和23年)に創立されました。創立にあたり、一戸一冊献本運動に見られるように市民の大きな支援がありました。図書館には熱心な利用者が集まり、郷土史家・研究者の知的なサロンが自然に形成されていたようです。翌年には、早くも郷土誌「わが住む里」が創刊されます。
 「わが住む里」の誌名は小川泰堂の『我棲里』に由来しています。小川泰堂(1814年~1878年)は、江戸後期の藤沢の医家で、「わが郷土は如何
なる処ぞと藤沢の沿革及び史蹟の探求」を行ない『我棲里』を著わしました。藤沢の地誌の嚆矢とされる文献です。創刊に携わった方々の意気込みが伝わる誌名です。
 創刊当初の編集方針は「現在の藤沢を知り、藤沢をよりよく発展させるためには、藤沢の歴史を知らなければならない。然し過去を知ることが単なる追慕に終わってはならない。郷土史の研究が日当たりのよい縁先の骨董品いじりに堕することを吾々は大いに戒めなければならない。科学的な郷土史の研究という陳腐な言葉をあえて力説する。」「親しみ易い郷土史そして同時に学問的香りの高い郷土史これこそ創刊号以来我々の念頭を去らないモットーである。」と熱く述べられています。また、第2号では「ひろく市民有志の皆様から郷土史に関する論文、随筆等を募集します。」という呼びかけがなされ、市民参加型の郷土誌という性格が当初から打ち出されています。
 「わが住む里」が図書館創立直後に創刊されたのは、歴史研究に造詣の深い利用者、館員がいたためです。私が先輩に聞いたところでは、その昔、書誌学の泰斗・森銑三先生は時々、図書館に顔を出されていたようで、「森銑三氏寄贈」という寄贈印のある蔵書が散見されるのは、その名残です。古くからの蔵書を見ますと、小さな市立図書館でありながら、「群書類従」「国史大系」「大日本仏教全書」「大正新脩大蔵経」など学術的に貴重叢書や地方史関連の史料がたくさんあります。当時の質の高い郷土研究・歴史研究をこれらの蔵書が支えていた訳で、今でもレファレンス資料として活用しています。
 藤沢という街は、歴史研究の対象に事欠かない豊かな歴史性があります。以下のような歴史の厚みと豊かさが多くの市民を「郷土研究」「歴史研究」に向かわせるのでしょう。古代の鎌倉武士の信仰を集めた江の島神社。中世に広く全国に流布され、大きな影響力を持った時宗の総本山遊行寺。近世の東海道五十三次の藤沢宿。明治、大正、昭和の文人墨客が集った鵠沼・片瀬の別荘や海水浴場。自由民権運動とその後多くの社会主義者、思想家が居住した街。射爆場、飛行場、「電測学校」など戦時中は軍の重要施設があった街。戦後は高度成長の波に乗り、農業、商業、工業、観光などの各産業がバランスよく発達した産業都市。高度成長の歪みとともに住民運動・市民運動が活発に行われた街。良好な住環境に恵まれ、「湘南」のイメージに惹かれて多くの知識層、富裕層が居住する街。以前、市民のなかで「著作」を持つ人を「著作権台帳」を使って調べたことがありますが、2頁にひとりぐらいの割合で載っていて驚いたことがあります。世田谷区や鎌倉市とならんで、住民の知的レベルのきわめて高い街とわかりました。
 したがって、郷土誌「わが住む里」の内容も多様性に富んだものになっています。その多くは市民の投稿で貴重な郷土研究ですが、なかには著名な方の論考も載っています。たとえば、戦前「福本イズム」で一世を風靡した福本和夫氏の『神奈川県下の村芝居舞台の実地調査』、戦後、「老いらくの恋」で一躍、時の人となった歌人・川田俊子氏の『回想の川田順』、女性運動家の草分け・山川菊栄氏の『公園と衛生設備を十分に』、作家・佐江衆一氏のエッセイ『闇夜の蟹』などが載っています。  
近年は近代史、現代史の原稿も増え、その中に
は『講演記録「辻堂時代の木下恵介」』のように、映画を題材とした親しみやすい記事もあります。これは図書館の読書週間の講演会とリンクしたものです。
現在、図書館に歴史研究に詳しい職員が少なく、論文の内容も評価しにくいことから、文責は投稿者に帰させていただいています。市民の研究発表の場を提供するというのが編集方針です。藤沢の郷土研究・歴史研究は、「わが住む里」が先導してきましたが、現在は「藤沢市文書館」が中心になっています。歴史研究の専門機関である文書館がその研究成果を順次刊行しています。刊行物の詳細は藤沢市のホームページをご覧ください。